彦根城のはじまり
彦根城は標高約136mの彦根山山頂の天守を中心にしてつくられました。1600年の関ケ原合戦の次の年、彦根藩初代藩主の井伊直政には佐和山城が与えられます。その翌年に直政はなくなってしまいますが、1604年7月1日から直政の長男の直継によって、佐和山城から1kmほど離れた彦根山を中心にして彦根城の建設工事が開始されます。
彦根城の建設工事は、江戸幕府が全面的にバックアップして行われました。工事は彦根の近くの大名も協力して大急ぎで進められ、1606年の年末から1607年の年始頃には、天守が完成しました。天守は大津城から持ってきたと伝わっていて、そのほかの建物や石垣の石も他のお城などからリユースしたものと伝わっています。
工事は、山を大きく削ったり、石垣を築いたり、芹川の流れを変えたり、城下町をつくったりする必要があったのですごく大変なものだったので幕府のバックアップが必要でした。
なお、最終的な堀は内堀、中堀、外堀の3重でしたが、最初は1重の堀でした。そして、城主は今の彦根城博物館がある表御殿ではなくて、山の上の天守の前につくられた御殿にいました。
このお城の工事は、大坂城にいた豊臣氏を全滅させるための大坂の陣という戦いで中断しますが、そのあとは直継の弟の直孝があとをついで完成させ、彦根城は地域の政治の中心としての役割を果たしていきます。
彦根の殿様井伊家
昔の彦根の領地は大きく、滋賀県の東部から北部に広がっていました。彦根を守っていたのが、井伊家です。江戸時代のおよそ260年間に、井伊家の殿様は14人いました。
初代の直政は「関ケ原の戦い」で活躍し、彦根の殿様となりました。2代目の直孝は、将軍からとても信頼されたので、江戸幕府の中で重要な仕事をしていました。
そんな井伊家のなかでも有名なのが、直弼です。13番目の殿様で、幕府の大老(江戸幕府の政治において、最も立場が高い人)として、いろいろな難しい問題に取り組みました。しかし、反対の立場の人たちからは憎まれて、江戸(東京)で暗殺されてしまいました。
彦根城のココがすごい①
江戸時代のことがよくわかるところがすごい!
日本の江戸時代は、世界的に珍しく、200年以上の間、戦争のない平和な時代でした。戦国時代を終わらせたのは、武士でした。武士たちは自分たちの役割を、「戦うことを専門とする集団」から「政治を専門とする集団」に変えて、「城」を中心に自分の領地をおさめる新しい仕組み(将軍を中心とする幕府と大名を中心とする藩が一緒に国をおさめる仕組み)を築き上げました。
彦根城は、領地をおさめるための様々な設備が日本で一番多く残っていて、良い状態で保存されています。
このことから、彦根城を見れば、それだけで江戸時代の政治の仕組みを知ることができるのです。
彦根城のココがすごい②
江戸時代のいろいろなものがのこっているのがすごい!
彦根城には堀、石垣、天守、櫓、庭園などがよく残されていて、発掘調査によって地下の考古学的遺構も残っていることがわかっています。
江戸時代の領地をおさめるための仕組みがこれだけたくさん残っているのは彦根城だけです。
井伊の赤備え
井伊家には、殿様から家来まで、戦の時は、赤い色の鎧や兜をつけるという決まりがありました。兜の金色の角は「天衝」と呼びます。殿様の兜には頭の横に、家来の兜には頭の前に、天衝をつけることも決められていました。
江戸時代の彦根
彦根藩の範囲と人口
近江国での彦根藩の領地は、現在の彦根市だけでなく長浜市から米原市、多賀町、甲良町、豊郷町、
愛荘町、東近江市、近江八幡市までの広いものでした。近江国の彦根藩の領地に住んでいた人は、江戸時代前期で約20万人です。ちなみに城下町には約3万7千人の人が暮らしていて、そのうち武士が約2万人でした。
※彦根藩の領地は東京都の世田谷や栃木県の佐野市にもありました。
彦根城の周辺環境
1944年に干拓工事がはじまるまで、彦根城の北には松原内湖という琵琶湖とは別の湖がひろがっていました。
彦根城が現在に残ったわけ
明治時代に入ると、彦根城と城下町は目まぐるしく変化します。1871年7月には彦根藩が廃止され、9月には最後の彦根城主だった井伊直憲が彦根を離れることになります。この後、彦根城は役所となったり、軍隊の基地になったりしますが、1878年に軍隊の基地が他に移ったことで、使われなくなった天守などのお城の建物を壊すことが決定されます。この時が彦根城にとって最大のピンチでしたが、明治天皇と一緒に彦根を訪れていた大隈重信が、彦根城が解体されかかっているのを目撃し、残念に思って明治天皇に彦根城を保存するよう提案します。このことから、彦根城は残されることになり、保存を願う市民の思いもかないました。
1944年には、彦根城跡の土地・建物が井伊家から彦根市に無償で寄付され、1951年に、彦根城が史跡という文化財になりました。さらに1956年には特別史跡として指定されます。ちなみに特別史跡は滋賀県では安土城と彦根城しかありません。
彦根城の歴史
1600年 | 関ケ原の戦い |
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1601年 | 井伊直政が佐和山城に入城 |
1602年 | 井伊直政がなくなる。長男、直継が城主となる。 |
1604年 | 彦根城の築城がはじまる。 |
1606年〜 | 天守が完成 |
1607年 | |
1614年 | 大坂の陣(冬の陣)、次男の直孝が3代目城主となる。 |
1615年 | 大坂の陣(夏の陣) |
1622年 | 城下町を含めた彦根城が完成する。 |
1677年~1679年 | 城内に玄宮園が造られる。 |
1867年 | 江戸時代が終わる。 |
1871年 | 江戸時代が終わって、彦根藩がなくなる。 |
1878年 | 明治天皇により、彦根城の保存が決定される。 |
1944年 | 彦根城が彦根市に寄付される。 |
1951年 | 彦根城が文化財保護法で指定保護される。 |
1952年 | 天守が国宝になる。 |
1956年 | 特別史跡になる。 |
能の世界
能は今から650年くらい前にはじめられ、さかんに行われた劇です。専用の能舞台の上で、役者が顔に能面をつけ、能装束(能のための衣装)を着て、演じます。
能面は物語の役によって、いろいろな種類が必要で、神の面・老人の面・強い力をもつ鬼の面・幽霊の面・男や女の面があります。
能装束も役によって使う種類が決められています。模様や色のトーンを選んで使い分けることで、着ているもので演じる役の性格をあらわすことができます。また、本物の能舞台がお城の中に残っているのは、全国で彦根城だけです。
茶の湯
みなさんが毎日飲んでいるのは、お茶の葉にお湯をそそいで飲む「煎茶」です。これとは別に、お茶の葉を石臼でひいて、細かい粉にしたお茶を「抹茶」といい、お湯にとかして飲みます。
抹茶は、最初はお寺のお坊さんが薬として飲んでいましたが、しだいに一般の人たちにも広まっていきました。
茶の湯では、お茶を味わうと同時に、使われている茶碗などの道具や、部屋に飾られている花や掛軸を見て楽しみます。彦根城博物館にも、彦根藩井伊家の歴代当主がお客様をもてなすために集めた茶道具が多く残されています。茶の湯で一番大切なのは、もてなしの心なのです。
茶の湯の世界から始まった「一期一会」の四字熟語は、幕末の大老井伊直弼がつくった言葉だと言われています。